脳は夢を編集する

2011/10/21 21:12

つげ義春の「ねじ式」を初めて読んだのは随分昔のことだが、そこまで鮮明な夢でなくても、自分の見る夢は不可解でありながら、どこか懐かしさを感じる部分がある。

最近知ったことだが、夢というのは脳が活動しているレム睡眠の間に、右脳に発生した視覚的なイメージの刺激を、左脳がどうにかして、意味のあるストーリーとして組み替えようと懸命に編集作業を行った結果らしい。

もともと何の脈路もないイメージの発火を、意味のあるものとして捉え直そうとしている訳だから、ストーリーは怪しげであり、かつ、自分の無意識的な解釈のクセが出てしまうため、感覚としてどこか懐かしさを感じることも理解できる。それは、自分にとって一番ストレス無く構成できる物語だから、自分自身の潜在意識が色濃く反映されている。

では、脳はどうして単なるイメージの刺激をありのままに、受け容れることができないのだろうか。子どもは昼間の刺激=記憶を古い脳に転送する際、自分にとって意味のあるストーリーを構成する程の経験・スキルがないために、無秩序なイメージの発火に絶えられず夜泣きする。総合失調症の患者も、自分で制御できないイメージの洪水に強い恐怖を感じる。人間にとっては、周りの事象を意味のあるものとして体系付けられないということは強い恐怖である。これは心の問題だけでなく、身体にとっても全体のホメオスタシス(恒常性)が失われると命がなくなるように、外界と自分自身のバランスを取り、全体が意味のあるものとして統合されているということは、人間にとって、生きていることそのものなのだと感じる。

交感神経と副交感神経の絶妙なバランスの上に命が成立していることを考えると、自分の置かれている環境を正しく検知し、位置づけ、一つの意味の体系として理解することは、人が生きていく上での大前提であることが、印象として理解できるのではないだろうか。元々命というものの実態が、様々な細胞が集まり、ひとかたまりの”動き”=”血流や神経の電気信号”という動的な状態を指しているので、一瞬に切ってしまえば、命というものには実態がない。命とは、自分というひとかたまりの集合体を、統合、統制するシステムの活動であり、脳にとっては周りの出来事が、意味のあるストーリーとして理解できることこそが、自分自身というものを捉え、安心するための唯一無二の手法である。しかも、このストーリー化された解釈は、客観的に見て、正しかろうが、間違っていようが問題にならない。唯一の判断基準は自分にとって、納得できる解釈であるかどうかということである。

だから脳はせっせとイメージを解釈し、一つの意味の体系として捉え直した上で、記憶の格納庫に収納するのである。

ここからは、マーケティングの話。

マーケッター、あるいはプランナー、そしてリサーチャーも「脳は意味のないと思われる情報を積極的に排除する。」ということを理解していなければならない。我々は情報の波におぼれて、ただただ集め、陳列することにだけに追われていないか。情報がたやすく得られることに中毒になり、あれもこれも並べ立てていないか。それは脳内に於ける編集される前のイメージの発火に過ぎない。我々の仕事は、そこに意味を見いだし、クライアントの脳が喜ぶ新しいストーリーを生み出すことである。


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