僧帽弁弁膜症顛末記

2013/08/23 15:01

異常が始まったのは、5月4日。

ゴールデンウィークの後半ではあったが、販売支援しているヒラメの商品の撮影をしていた。こういう生ものの撮影というのは、時間との勝負なので、多少体調が悪くても動かすことが出来ない。調理もからんでいたので、よけいにピンポイントでの撮影が必要だった。

異常を感じだしたのは、呼吸困難からだった。なんとなく息苦しい。

いつものスピードで歩けない。

そのうち、血の混じった痰が出だす。

汚い痰というより、濁りのないきれいな血痰という感じ。

きっと喉か気管支が炎症を起こしているのだろうと思い、市販の風邪薬を飲んだ程度で治るだろうと高をくくっていた。それでも息苦しさは増していく。いつもなら薬を飲んで2時間もすれば、通常の体調に戻るはずだった。でも、息苦しさや赤い痰は止まらないどころか、だんだんひどくなっていく。でも重い病気なら、痛みがあったり、熱が出たりするはずだが、自覚症状としては息苦しい以外になんともない。

 

5日なると息苦しさが本格的になり、血痰の量も増えていく。

初めての経験で不安になってきたので、休日診療センターに電話してみる。

「ちょっと息苦しいのですけど‥‥」

「そういう症状で来られても診療できないので、いくつか診療している病院を紹介しますから、そちらに連絡を‥‥」

その病院に電話してみると、「呼吸器系の医師がいないので、診察は難しい」、「ちょっといま患者が多いので」等々、どこも診てくれる気配がない。

このとき始めて、病院にとって患者がお客さんというよりは、むしろ迷惑な存在であることがあることを理解する。

 

写真の撮影も残っていたので、たいがいのところで諦めてしまった。

夜になって寝ようとすると、今度は横になると苦しく、体を横にすることができなくなった。おまけに肺の部分を指で押すと、「グチュグチュ」と音がする。

後で聞いたことだが、心臓の疾患の場合、横になると血が心臓に戻るため心臓の負荷が高まり、苦しくなるそうである。回りの人が横になって苦しいといったら、これはまず心臓なので、すぐに救急車を呼ぶべきである。

翌6日も少し仕事が残っていたので、ゼーゼー良いながらも仕方がないのでこなしてしまい、ようやく午後に終わったので、もう一度病院を探し始めた。

行政の窓口ではらちがあかないので、直接片っ端から電話を掛けたものの昨日と同じような反応で、ようやく淀川キリスト教病院に連絡して始めて「来て下さい」と言われたときは正直ほっとした。

取りあえず、この状況の原因はこれでわかるはず。なんと言われることやら。

体は取りあえず動くので、タクシーを拾って一人で乗り込んだが、息はかなり苦しく、少しずつ、ゆっくり呼吸しながら、たどり着いた。

病院の休日診療窓口にはすでに30人近い人がいて、これは数時間待たされるかも知れないとけっこう暗い気持ちになったが、問診票に「息が苦しい」とだけ書いてだすと、直ぐに診察室に入るように言われた。

心臓の病気の場合、診療を待っていたり、搬送先を探すうちに手遅れになることも多いらしい。一番に診察室に入れたのは、受付の人や担当医が適切に判断してくれたお陰である。

診察室で、直ぐ血中酸素濃度を指で測る機械をつけられる。

87くらいの値。こちらはその数字が何を意味しているのかはわからない。

「これは苦しいやろ」と医師がいい、「こっちに来なさい」といって、救急治療室(のような場所)へ連れていかれ、色々な器具でいっぱいの診療台を指さして、ここに横になりなさいと言われる。「いきなりすごい部屋だなぁ」と思う。

 

ここから事態は急転直下に動き出す。

診療台に乗せられると、上しか見えない。当たり前だが、初めてのことなので、こんなに回りの状況が分からなくなるものかと驚く。天井と照明器具の視界に、時々医師や看護師がのぞき込んで話す。

直ぐに酸素吸入器を装着され、診療台に乗せられたまま、おそらく病院中の検査機械に掛けられた。レントゲン、CT、MRI、エコー検査。

病院といえば、ひとつ検査するのに随分時間がかかる印象があったが、最優先で処理するするとすごいスピードで進んでいく。

体にはみるみるいろんな管がついていく。

採血やら、血管確保のためのカテーテル、だんだん針を刺されることにも慣れてきた。

こうなるともう動けない。だんだん観念してくる。

服装はまだ私服姿のままである。

 

ある程度検査が進んだ段階で、当直の医師が、「これは多分心臓だね。このまま入院になるから」と言われ、衝撃を受ける。

正直、「あれもこれも悪いと言って、一稼ぎしようとしてるんじゃないか」とか思ってしまう。「心臓が悪いなんていままで言われたことがないし、心臓は痛くも、苦しくもないじゃないか。」ここまで来ても、まだ状況を受け入れることができない。

こちらの意志確認もそこそこに医師は、「一般病棟でベッド開いていますか?」と問い合わせしている。

「ベッドは空いているみたいだから。」、

「はぁ。帰れないんですか?」

「それは無理。」

後から考えれば、ベッドが空いていたこと自体幸運である。無くて搬送と言われていたら、今頃どうなっていたかわからない。

続いて尿道カテーテル。そのまま尿道に管を差し込まれるわけで、麻酔もなにもないので、そういう痛い。看護婦さんに掴まれて、ポンと入れられ、「あぁ、コレは駄目だ。」とあきらめがついた。

「家の人に連絡してください。しばらくベッドから出ることは出来ません。」と言われる。

ほんの数メートル先のトイレに行くことも許されなくなる。

どうも最重篤状態らしいが、この時はまだ自分でうまく状況が掴めていない。

酸素吸入器を付けられたのも始めてである。1分間5ml。やたら喉が渇く。

翌日はGW開けで、たちまち東京への移動の予定である。また、他のアポイントも沢山いれていたので、なんとかしないといけない。

とにかく家族に連絡して、パソコンやらモデムを持って来て欲しいと依頼した。

いったいこの先、自分が何日ここから動けないのか、さっぱりわからない。

「とりあえず3日は無理だな。」

病室から出られないので、電話もできず、通信手段はメールのみという状況になった。

このときの体の状況を後から聞くと、心臓は負担で通常の倍の大きさにふくれあがり、肺は水浸しで、レントゲン写真が肺中真っ白という状況だった。

医師からは、「もう少しで心停止していたね」といわれ、病院が見つからないまま、東京に移動としていたとすると、東京駅で死亡なんてことになりかないところだった。実際そうやって死んでいく人も多いらしい。

 

心臓の病気の中でも、心筋梗塞は直ぐに苦しくなるので比較的分かりやすいと思うが、弁膜症は、ある程度心臓の方がカバーしようとがんばってしまうために、本人にはほとんど自覚症状がない。

慢性の弁膜症の場合は、心臓弁から血が漏れて、心臓に負担かかかり、徐々に心臓が肥大化していくというプロセスを経るため、健診でも見つかりやすい。

今回の場合は急性で、いきなり心臓の僧帽弁という肺から入った血液を、体中に押し出すという最も重要な弁(もしくはそれを支えている腱索)が急に切れたことが原因であった。

まったく何もなく、切れるということはないでしょうから、ある程度、切れる予兆のようなものはあったのかもしれない。しかし、慢性であれば、心臓の肥大化という症状が現れるが、今回の場合はそのようなこともなく、健診でも心臓に関して何らかの疾患があるという診断を受けたことは一度もないままだった。

健康な人でも、多少は逆流しており、程度問題だそうだが、私の場合は5月4日に急に何かの原因で、弁(もしくは腱索)が大きく切れ、いきなり逆流を始め、それをカバーするために心臓が必死にがんばっていたことになる。

こちらはそんなこととは知らずに、市販の風邪薬なんか飲んで、「治らんなぁ」とかいっていたわけだから。怖い話です。ほんとにこういう無知な人間が、つまらないことであっさり死んでしまう。

入院した翌日に、心臓のエコーを撮りながら、説明された。

エコー検査では、正常な方向の血流は赤に、逆流している血はエコー青く表示される。

心臓内部の映像が、鼓動の度に青くなる。

「これはかなりきつい逆流ですね。心臓手術が必要です。外科の先生に来てもらいましょう。」といきなり言われます。「はぁ、心臓手術?」。

私は、手術もおろか、入院すらしたことがなかった。

心臓手術と言われてもまったくイメージが涌かない。

「しばらく、内科的な方法で症状の回復を図ります。それで回復しなければ緊急手術ということもあります。」と言われる。

とにかく何の精神的、事務的な準備もないわけだから、どう反応していいかもわからない。

とにかく、簡単に退院という状況ではないことだけが、理解出来た。

 

数日間入院して治療を続けるうちに、肺の水が抜けていき、息苦しさは改善していった。

血の逆流は続いているものの、肺の機能が回復し、心臓の負荷が軽減することで、心臓の大きさも、かなり元に戻っていった。

もし緊急手術ということになっていたら、失敗する確率がかなり高くなっていたそうである。

体は回復し、徐々に管なども取れていく中で、今度は手術へ向けた具体的な準備が始まる。その過程で、心臓カテーテル検査を受けましたが、これはかなりきつい。

1時間程度のことだが、麻酔は挿入する手首部分だけなので、カテーテルが動く感覚が有り、心臓まで届いていることもなんとなくわかる。自分が精神的にパニックならないか、不安だったが、なんとか落ち着いて乗り切ることができた。その後に手首を締めて、止血するのですが、これがうまく行かず、一晩中手首を締められて痛くて眠れなかったことが、正直入院中一番こたえた。

 

私は全く病気に対する知識がなったために、ネットから必死に調べた。

手術がどういう手順で行われるのか、リスクはどの程度か、患者として何をすべきか。

考えていると頭か冴えて、夜眠れないため、毎晩睡眠薬をもらっていた。

 

手術の内容は担当の莇(あざみ)先生から、2時間程度も詳しく説明していただき、理解できた。(莇先生は手術が決まってから、退院するまで、毎日のように顔を出して、励ましてくれました。患者思いの熱い医師です。本当にいい病院、いい医師、いい看護師さんに恵まれました。淀川キリスト教病院については、また別の機会に書きたいと思います。)

統計的に失敗するリスクは5%程度ということ。

でも、自分の心臓が一度、血管と切り離され、心臓自体も切開され、また縫い合わして元に戻すというのは想像できません。

とにかく死ぬかも知れないが、死ぬこと自体は考えるのをやめて、自分のできるこに集中することにしました。そういう精神状態になるには随分時間かかかりましたが、もう考え尽くした感があったので、手術の日の朝は淡々と準備するだけになっていました。

この頃には同じフロア内なら病院内の移動が自力でできるようになっていので、看護師さんに付き添われて、歩いて手術室へ行く。

淀川キリスト教病院の手術室は、自動車レース場のピットのように、いくつもの手術室が集中して並んでいる。その物々しい雰囲気の中を、点滴の器具をごろごろ言わせて歩く。自分は手術着のみで、他は何も着ていない。いつも携帯やらパソコンやら、道具と一緒のことが当たり前の身には、この裸一貫というのは、何とも心許ない感じがした。

自分の手術室に入ると、医師や看護師さんが8人くらい。「はい、台に上がって」と言われる。自力ではしごを登り手術台に横になります。よく怖じ気づかなかったと上がった時には少し安心しました。やがて人工呼吸器から、さわやかな感じの麻酔薬が送られ、意識は無くなっていきました。

 

手術は順調に5時間ほどで終了し、ICUからは翌日には出来ることができた。

その後は回復すればいいだけですから、多少苦しさや痛さがあっても気楽なものです。順調に回復し、手術から2週間後に退院し、退院後5日後には仕事にも復帰していました。

 

今回の経験でわかった3つのこと、

一つ目は

・人は死ぬときは簡単に死ぬこと

その原因の多くは自分の状況が分かっていないことにあること。

私は5月4日に発症し、呼吸困難と血痰が出る状態にありましたが、GW期間中で医療機関にかかれず、自己判断で風邪薬を飲んでしのいでいました。

もう1日遅れていたら、かなりの確率で死亡するリスクが高くなっていました。ここほんの2年間ほどで、私の知っている40代の女性が3人無くなっています。

私は今回の件があるまで、手術も入院もしたことはありません。

自分が死ぬことを自覚するまでは、まだ20年程度はあるだろうと高をくくっていました。

しかし、死ぬことはけっして遠い、遙か先のことではなく、誰でも、いつもすぐ隣にあることだということがよくわかりました。

 

・人はなかなか死なないということ

状況が正確に把握され、適切な処置がされれば、人はほとんどの場合死ななくなっている。

心臓を取り外し、切開して、縫い付けて、また戻すという手術をしてもその2日後には歩くことが出来ました。また、その手術も輸血無しで行うことができました。

現代の医療技術は、なかなか人は死ななくなっています。自分自身の状況と、医療機関との適切な協力があれば、人はなかなか死にません。

 

・人とつながることで、救われる

出会った医師、看護師さんにも単なる仕事以上のものをもらいました。

入院中にフェイスブックにいただいたメッセージにも、支えられました。

病室から一歩も出られなくなったときに、それでも自分とつながってくれている人がいるということは、とても大きな安心感につながるものです。

ひょっとすると信頼できる人たちとつながることが一番 健康のもとであるのかもしれません。

 


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